東京—宇野(岡山県玉野市)間を走り、本州と四国を結ぶ宇高連絡船に接続していた寝台特急「瀬戸」。1988年4月の瀬戸大橋線開業により高松への直接乗り入れを果たし、四国連絡ブルートレインとしての本領を発揮した。
「瀬戸」は72年に急行から格上げされる形でブルトレに仲間入りした。長くB寝台車のみの編成で九州方面の列車に比べると地味だったが、宇高連絡船で瀬戸内海を渡ると高松から、松山や高知などの各都市に向かう特急に接続していた。
瀬戸大橋開通直前、88年3月の下り「瀬戸」は東京21時05分発〜宇野7時11分着のダイヤで、宇高連絡船の急行便「ホーバークラフト」に乗り換えると高松に7時41分、通常便では8時28分に着いた。ただ、その先はもっと時間がかかり、松山には特急「しおかぜ5号」で11時46分、高知には特急「南風3号」で11時26分の到着だった。
それが、瀬戸大橋を渡って四国に直接足を延ばすようになると、「瀬戸」は各特急との接続が改善された。高松は7時36分着とホーバークラフト時代とほぼ同じだったが、乗り換え駅が坂出となったことで松山に9時54分着(いしづち3号)、高知は9時55分着(しまんと1号)と所要時間の大幅な短縮が実現した。
88年は本州と北海道を結ぶ青函トンネルも開通し、ダイヤ改正でも「レールが結ぶ一本列島」のフレーズを前面に出していた。JR4社をまたいで走る「瀬戸」は電気機関車EF65形1000番台(PF形)がJR東日本、24系25形客車がJR西日本の受け持ちで、編成面でも「一本列島」を体現する列車だった。
私が四国を訪れた時は、国鉄(JR)線に電車が走り始めて1年半にもなっていない時期で、まだ「気動車王国」と呼ばれた頃の雰囲気が残っていた。そこに東海道・山陽路の花形ブルトレの「瀬戸」が現れたのである。瀬戸内海を描いたヘッドマークを掲げたEF65PF形が讃岐路を行く姿は、列島の新時代を映していた。
「瀬戸」は98年7月に現在の個室寝台車主体の285系電車「サンライズ瀬戸」に衣替えした。ブルトレとしてはわずか10年間であったが、東京からの連絡特急として朝焼けの瀬戸内海を渡った雄姿は、四国の鉄道史にしっかり刻まれている。