鉄道少年が見た情景– category –
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0系新幹線の窓 大きさ比べ〜鉄道趣味探求の入り口
「夢の超特急」として1964(昭和39)年にデビューした0系新幹線。その親しみやすい団子鼻は日本の鉄道のみならず、高度経済成長期の象徴的なアイコンとなった。20年以上にわたり3216両が製造された0系は、趣味対象としてはマイナーな分野だったが、側窓の大きさの違いなど楽しめる要素も多かった。 -
京阪神のスター117系〜地方に回った後半生
1980(昭和55)年に発行された「レイル・カレンダー1981」(山と渓谷社)。その年にデビューした京阪神地区の117系近郊形電車が、新幹線や特急、ブルートレインなど当時の看板列車を押しのけて表紙を飾った。さっそうと走る姿を流し撮りでとらえた写真は、期待の新星への注目の高さがうかがえる。 -
急行「火の山」と阿蘇観光
1984(昭和59)年の夏、熊本駅から豊肥本線の急行「火の山」で阿蘇に向かった。当時は3往復運転されていたが、朝9時半ごろ出発する1号は観光客らで混雑していた。立野駅のスイッチバックを越えて阿蘇のカルデラに入ると、「火の山」の車窓には雄大な景色が広がる。知らない土地を進むローカル線の旅は新鮮だった。 -
昭和50年代 特急有明に連結された「ビデオカー」
昭和50年代後半、九州を代表する特急「有明」の一部列車に「ビデオカー」という車両が連結されていた。編成端に組み込まれた自由席車両で、大型スクリーンで郷土芸能や観光案内などのビデオをエンドレスで放映していた。 -
JR貨物の試験塗装機〜新生会社のイメージアップ作戦
国鉄からJRへー。1987(昭和62)年4月、新たに発足した各社では、イメージアップや地域密着アピールなどのため列車の塗装変更が多く行われた。JR貨物でも、貨物列車をけん引する電気機関車に試験的に行われた。 -
115系3000番台〜都市圏輸送を変えた「シティ電車」
国鉄末期の1982(昭和57)年、広島地区に登場した「ひろしまシティ電車」。地方都市で首都圏の国電並みの等間隔・高頻度運転を実現させたもので、「待たずに時刻表なしでも乗れる」便利なダイヤは、各地の都市圏輸送の手本になった。「シティ電車」の運転形態に合わせてデビューしたのが115系3000番台だった。 -
宇部線のクモハ105形500番台〜地下鉄千代田線直通車の転身
地方の電化路線に残っていた茶色の旧形国電の置き換え用として1981(昭和56)年に登場した105系通勤形電車。旅客量に応じて短編成で走れる設計で、主に西日本のローカル線に投入された。同系には常磐緩行線〜地下鉄千代田線を走っていた103系1000番台の改造車500番台のグループもあった。 -
山陽本線の名所・四郎谷の入り江
山陽本線に乗ったときの楽しみは車窓に広がる瀬戸内海。東京駅からの寝台特急で朝を迎えたときの、陽光を受けてキラキラと輝く景色は印象的だ。山口県周南市から防府市にかけての戸田—富海間はさまざまな表情の海が広がる。その中ほどにある四郎谷地区の穏やかな入り江は、風光明媚な名所として親しまれている。 -
下関駅の機関車交換~ブルトレの朝の「儀式」
夕方から夜にかけて次々に東京駅を出発した九州方面行きの寝台特急。乗車して一夜明けると恒例の「儀式」があった。本州西端の下関駅での機関車交換。多くの鉄道ファンが注目するブルートレインの旅のハイライトだった。 -
SLやまぐち号 C571の煙突と集煙装置
国鉄での蒸気機関車復活が実現し、山口線にSLやまぐち号が走り始めたのは1979(昭和54)年のこと。産業遺産や観光資源としての期待が高まり、ローカル線活性化の切り札としての登場だった。けん引機のC57形1号機には、集煙装置や回転式火の粉止めなど、煙害を防ぐさまざまな改造が施された。 -
特急ヘッドマーク 幕回しの楽しみ
終点に着いた列車が折り返すときに見られる幕回し。かつて東北、上信越方面へ多くの特急列車が発着していた上野駅では、行き先方向幕だけでなく、前面を飾るヘッドマークの幕回しが見られた。一番の楽しみは普段見られなかったり、既に廃止された列車が一瞬だけ「復活」することだ。少年カメラマンには恰好の被写体だった。 -
乗らなかった20系客車への憧憬
2015年まで60年近くにわたって親しまれたブルートレイン。「象徴」といえば20系客車になるだろう。一時代を築いたが、80年代になるとその後登場した車両と比べて見劣りするようになり、「急行」として運転されるケースが増えていた。