国鉄からJRに変わって1年が過ぎた1988年5月、山陰本線を訪れて50系客車の鈍行列車に乗った。電車や気動車と異なる軽やかな走行音と、客室の窓を開けて眺める日本海。一般形客車ならではの「着飾らない」汽車旅が味わえた。
この時は山口県内のJR線が1日乗り放題となるフリーきっぷを使って、県西部を1周する旅に出ていた。小郡(現新山口)駅から「SLやまぐち号」に乗って島根県の津和野に入り、さらに益田まで出ると、山陰本線のディーゼル機関車DD51形と50系客車が待っていた。
客車は同じ普通列車でも、モーターやエンジンを載せた車両と違って静かで居心地が良かった。窓を開けると爽やかな風を浴びることもできた。途中の東萩や長門市で小休止しながらの、のんびりした旅。終点・下関に着いたのは夜だった。
乗車した50系客車は、老朽化してきた旧型客車の置き換え用として製造された、当時車齢10年ほどの比較的新しい車両だった。内装は冷房がないものの、乗降ドアが自動化されるなど近代化されていて、赤系の車体色から「レッドトレイン」という愛称があった。
ただ、50系の活躍期間は短かった。国鉄末期以降、各地で非効率な客車列車をなくす動きが進んだため、早いものでは10年もたたずに引退した。時代に合わなくなったとはいえ、数十年も走った旧型客車たちに比べると、ちょっと気の毒に思えた。
ふだん華やかなブルートレインを追いかけていた鉄道少年には、画一的な一般形客車の50系は平凡に思えた。山陰本線の鈍行列車で印象に残っているのは、日本海の美しい車窓や乗り合わせた人々との会話ばかりで、車両自体には目を向けることはなかった。
それでもいま振り返ると、存在を主張しない50系だったからこそ、旅そのものが引き立ったようにも思う。
昨今の鉄道旅と言えば、多彩な「おもてなし」を売りにした観光列車が人気を集めている。50系はそうした演出とは対極の存在で、山陰本線の鈍行は旧型客車全盛期を見られなかった私に、純粋な汽車旅の一端を経験させてくれた列車だった。