2025年3月10日に全線開業50周年を迎えた山陽新幹線。当初は東海道区間と一体化された地味な存在感だったが、国鉄末期に6両編成の0系「こだま」が登場。近距離都市間移動のニーズに応えた短い新幹線は、山陽区間の独自性を高め、その後の利便性向上のきっかけとなった。

区間運転の形態から「ミニ新幹線」と
呼ばれた=小郡(現新山口)、1988年
6両編成の「こだま」は85年6月24日、小倉—博多間にデビュー。福岡・北九州の2大都市間は人々の往来が活発で、新幹線は当時から通勤・通学、買い物などに日常利用されていた。1区間利用者数は最も多かった。
一方で、国鉄時代の山陽新幹線は東京中心にダイヤが組まれていて、末端の小倉—博多間は運転間隔にばらつきがあった。「6両こだま」はそれを埋めるように朝夕に1日5往復が設定された。
同区間専用の0系1編成は誤乗防止のステッカーが掲出され、ビデオサービスも試行されるなど、さまざまな工夫が見られた。

0系先頭車両の「鼻」部分=1986年
6両編成の「こだま」は、国鉄分割民営化を控えた86年11月のダイヤ改正で山陽区間全線で運行されるようになり、1日28往復に拡大。編成数は21本になった。短編成化して運行本数を増やす形態は、地方都市圏で進められていた「シティ電車」の新幹線版のようだった。
山陽新幹線はこうして、東京方面への中長距離輸送を維持しながら、近距離都市間輸送にもマッチした交通機関へと進化していった。

乗車案内で注意を促していた=小郡駅、1987年
6両編成の「こだま」には、長く0系が使われた。今はすっかり見慣れた山陽新幹線の短編成も、「6両こだま」登場時、その姿が異様に見えた人も多かったことだろう。当初「ミニ新幹線」と呼ばれたことからも想像できる。
しかし当時子どもだった筆者は、それほど違和感を覚えなかった。0系に代わる看板列車として2階建て車両を連結した100系がデビューしていたから、頭の中では自然に世代交代ができていたのかもしれない。
0系「6両こだま」は、特に広島以西ではのんびりした印象だった。華やかな100系「ひかり」に比べると少し退屈だったが、乗り慣れた空間には何とも言えない落ち着きがあった。

編成(右)が6両編成の「こだま」に回って
きて、客室は快適になった=博多駅、2001年
現在の山陽新幹線は九州にも直通し、快適な2人掛けの座席が並ぶ客室だったり「ハローキティ新幹線」が走るなど、独自性が強くなった。こうした進化を振り返ると、やはり国鉄末期に出た6両編成の「こだま」の影響は大きかったように思う。初代新幹線として華やかな面が語り継がれる0系の、見逃されがちなもう一つの功績でもある。
※関連記事
