0系に代わる2代目として1985年に登場した100系新幹線。2階建て食堂車や個室グリーン車を備えたX編成は80年代後半、東海道・山陽新幹線のエースとして、新生JRのイメージアップに貢献した。
デビュー前から話題性抜群だった100系。試作編成(X0)が85年10月に営業運転を始めると、利用者の期待はますます高まっていった。
量産は87年からの計画だったが、国鉄内部でも「古くなった0系を製造し続けるのはもったいない」との声があったという。最終的には、86年11月ダイヤ改正に合わせる形に前倒しされた。
100系量産車の第1陣は、仕様が検討中だった2階建て車両などを除く12両編成で登場した。「顔」に当たる先頭部分はヘッドライトの角度が調整され、特徴的な「つり目」はおとなしい印象に変わった。
外観で大きく変わったのは座席2列分に広がった側窓で、開放感のある車内を実現。フレッシュな100系の外観とよくマッチして、小窓が並ぶ試作編成が一気に古臭く感じるほどだった。
量産車は2階建て車両を組み込んだ時点でX2〜X5編成を名乗り、量産化改造 によりX1に改めた試作編成を含め、100系は計5本の態勢となった。
86年11月ダイヤ改正で、東京—博多を直通する速達タイプの「ひかり」4往復に投入。日本を代表する花形列車となった。
国鉄最末期にはX6、X7編成も追加され、87年4月のJR発足時には名古屋発着1往復を含む計6往復に拡充された。
100系は停車駅の少ない「ひかり」に使われていたから、新幹線の最寄り駅が小郡(現新山口)だった筆者にとってはなかなか乗れない花形列車だった。
将来の上京を意識するようになった中学時代、学校の窓から見えるX編成は、都会の空気を運んできてくれる気がして、通過時間は毎日のお楽しみだった。
100系X編成は、最高時速270キロの300系「のぞみ」が博多まで走り始めた93年3月ダイヤ改正で「主役」を譲ったが、その後も山陽新幹線に直通する「ひかり」に充当された。
「のぞみ」が全車指定席で料金が高かったこともあり、「ひかり」は所要時間は延びるものの一定の需要があった。
東京に進学していた筆者も、100系X編成は帰省や就職活動の際には重宝した。登場時の特別感はなくなったが、その分よく乗るようになった。人気で近寄れなかった2階建て食堂車も、この頃にはゆっくり過ごすことができた。
100系X編成は連日、東京—博多の長距離運用に就いていたせいか、90年代後半にはいろいろ疲弊していたと言われ、目玉だった食堂車も利用率が低下していたという。
そうしたこともあって、98年10月に「ひかり」から撤退。最後の1年間は東海道区間の「こだま」として走り、翌年ほかの100系に先駆けてひっそりと引退した。
エース時代の華やかさを考えると、食堂車を休止して走った最晩年は少し寂しかった。それでも100系X編成の走行距離は累計800万キロに達していたというから、与えられた役割を十分果たしての引退だった。
100系X編成は次世代300系・500系へのつなぎ役ではあったが、国鉄がJRへと変わる激動期、看板列車として鉄路を支えた功績は大きかった。
※100系全般は以下の関係記事にもまとめています