静岡—浜松間で日付をまたいだ「出雲」は、深夜の東海道をどんどん西進する。京都での機関車交換が見たいので就寝準備をせずに過ごしていたが、真っ暗な車窓と単調な走行音が眠りに誘う。
「ガタン」と列車が止まる衝撃に脳が覚醒する。時計を見ると午前3時半。「出雲」は京都駅に着いていた。どうやら寝てしまったようで、あわてて靴を履いてホームに出る。
すでにEF65 1109は切り離されていたが、しばらくして機回し線を山科方面へ向かって走ってきた。子どもの頃から好きな電気機関車と途中でお別れするのは寂しいものだが、しばらく待っていると、そんな思いをかき消すように大きなエンジン音を響かせたDD51形が入って来た。
きょうは1187号機だ。電化された東海道線を走ってきた「出雲」はここから一部非電化の山陰線に入り、このディーゼル機関車が終点の出雲市までけん引を担当する。
京都を発車してから、あらためて就寝準備。軽やかな線路のジョイント音を子守唄に眠りについた。
翌朝、香住到着前のおはよう放送で目を覚ました。車窓は次第に雨模様となってきた。山陰を訪れるときはなぜか曇っていることが多いが、この朝もそんな感じだ。
7時過ぎ、楽しみにしていた名所・余部鉄橋を通過。高さ41㍍からの眺めは空中散歩をしているような新鮮な感覚だ。
余部鉄橋は明治期以来、山陰の風雪に耐えてきた貴重な産業遺産だが、数年後には架け替えとなる。鉄道ファンからすると残念だが、車掌さんに話を聞くと「きょうの出雲号も、あと2時間遅く差しかかっていたら強風で渡れなかった」そうだ。
1986(昭和61)年の団体列車「みやび号」回送時の転落事故以来の規制で、運行現場にとっては天候が荒れる冬場の定時運行確保は悩みの種という。安全管理を思うと、余部の架け替えは当然の流れといえそうだ。
食堂車のない「出雲」は、浜坂から鳥取までが車内販売区間となっていて、有名な鳥取駅弁「かに寿司」を入手できる。
さっそく買い求めて元食堂車で包みを広げてみた。温かくはないが、やはりここで食べると雰囲気が出る。香住からグルメ旅の目的で乗車したという初老の夫婦も同じ考えのようで、かつての食堂車の気分を満喫していた。
1号車のA個室に戻ると、浜松から乗ってきた隣室のおばあさんが起きてきたので、廊下であいさつを交わす。今回は、車いすの母親が旅先の出雲市駅で世話になったお礼と足立美術館を訪れる目的だそうで、A個室はむかしを思い出して心地良いと話していた。長年走り続ける「出雲」は、いろんな人にとって思い出の列車になっているようだ。
鳥取駅に着くころ激しかった雨は徐々におさまってきていたが、車窓に広がるはずの名峰・大山の姿は、いまひとつだった。
米子駅では22分間停車するので、列車から降りて駅弁「吾左衛門寿司」を買い求めたり、「出雲」の青い車体を眺めながら伸びをするなどして過ごす。速さが売りの「特急」本来の姿ではないが、日常から離れたこののんびり感こそ、せわしない現代社会では最高のぜいたくではないだろうか。
宍道湖の車窓が広がると「出雲」は最終行程。静かにゆったりと時が流れた。東京から約14時間。急がない旅がこれほど心やすらぐものだとは思わなかった。
終点・出雲市駅のホームでは、隣室のおばあさんから「出雲の機関車と記念写真を撮って」と頼まれたので、シャッターを切ってあげた。
おばあさんは大変うれしそうで、勢い余ってDD51 1187のデッキに上がってしまった。運転士が「上がっちゃいけんよ」と笑いながら注意していたのが印象的だった。そこには、航空機や新幹線にはない旅情が、25年前と変わることなく残っていた。
※本稿は2005年に執筆したものです。「出雲」は2006年に廃止されました。
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