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「あさかぜ3・2号」身近な存在だった山陽ローカルブルートレイン
かつて東海道・山陽本線を走った寝台特急の中で、「あさかぜ3・2号」(東京—下関)は九州に乗り入れず広島で後部6両を切り離すなど、一般的には存在感が薄いイメージがある。しかし山口県内では、点在する中小都市を結ぶ「山陽ローカル特急」として身近なブルートレインだった。 -
昔ながらのブルトレスタイル 寝台急行「銀河」のノスタルジア
東海道本線の伝統列車の一つだった寝台急行「銀河」(東京—大阪)。新幹線を補完する夜行列車として長く利用され、晩年には往年のブルートレインらしさを残すことでも人気があった。 -
老舗の誇りを感じた「博多あさかぜ」国鉄末期のグレードアップ
国鉄末期の1987年春までに、金帯3本を巻いた24系グレードアップ編成に衣替えした東京—博多間の寝台特急「あさかぜ1・4号」(博多あさかぜ)。2人用B個室寝台やシャワールームが設けられ、食堂車など編成単位の内装を一新。快適性を向上させた「老舗ブルートレイン」の変身は大きな話題を呼んだ。 -
九州に渡った181系の先頭車 こだま形の雄姿を伝えた最終章
1958年にデビューし、海道本線黄金期の主役だった「こだま形」151系特急形電車(後に181系に統一)。新幹線開業後は山陽、上信越方面で活躍を続けた。ほとんどの車両が80年代前半には引退したが、車齢が若かった2両は九州に渡り「第二の人生」を送った。 -
四国を走ったブルートレイン~連絡特急「瀬戸」の本領
東京—宇野(岡山県玉野市)間を走り、本州と四国を結ぶ宇高連絡船に接続していた寝台特急「瀬戸」。1988年4月の瀬戸大橋線開業により高松への乗り入れを果たし、四国連絡ブルートレインとしての本領を発揮した。 -
東京と地方をつないだブルトレ~山口県内の停車駅振り分け
かつて東京駅から一晩かけて東海道・山陽本線を走ってきたブルートレインは、山口県内で朝を迎えた。岩国から下関まで中小地方都市が点在する同県。新幹線を補完する役割もあった各列車は停車駅を振り分けていた。 -
陰陽連絡の一翼を担ったキハ181系特急「おき」
山陽新幹線に接続する小郡(現新山口)から山口線を通って、山陰本線の米子、鳥取まで走った特急「おき」(現スーパーおき)。キハ181系気動車の短い編成だったが、陰陽連絡列車としての役割は大きかった。 -
「雷鳥」と北陸本線~特急街道の記憶
1985(昭和60)年5月、北陸本線のエースだった特急「雷鳥」に乗った。京都・新大阪駅と加賀温泉駅(石川県加賀市)を往復する約4時間。当時の国鉄を代表する「特急街道」を満喫した。 -
国鉄ボンネット特急に浸る~クハ481-603の客室と運転台
昭和後期の国鉄特急を代表する485系電車。東海道の花形だった151系「こだま形」以来のボンネットスタイルは列島を駆け抜け、多くの人々を魅了した。九州鉄道記念館(北九州市門司区)ではクハ481-603を保存・公開し、その勇姿を伝えている。 -
急行「火の山」と阿蘇観光
1984(昭和59)年の夏、熊本駅から豊肥本線の急行「火の山」で阿蘇に向かった。当時は3往復運転されていたが、朝9時半ごろ出発する1号は観光客らで混雑していた。立野駅のスイッチバックを越えて阿蘇のカルデラに入ると、「火の山」の車窓には雄大な景色が広がる。知らない土地を進むローカル線の旅は新鮮だった。 -
昭和50年代 特急有明に連結された「ビデオカー」
昭和50年代後半、九州を代表する特急「有明」の一部列車に「ビデオカー」という車両が連結されていた。編成端に組み込まれた自由席車両で、大型スクリーンで郷土芸能や観光案内などのビデオをエンドレスで放映していた。 -
特急ヘッドマーク 幕回しの楽しみ
終点に着いた列車が折り返すときに見られる幕回し。かつて東北、上信越方面へ多くの特急列車が発着していた上野駅では、行き先方向幕だけでなく、前面を飾るヘッドマークの幕回しが見られた。一番の楽しみは普段見られなかったり、既に廃止された列車が一瞬だけ「復活」することだ。少年カメラマンには恰好の被写体だった。
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