グランドひかり さよなら運転(2002年)

1989年にデビューし、食堂車を含む2階建てを4両連結。東海道・山陽新幹線を代表する列車として約13年間にわたって活躍した「グランドひかり」が、2002年11月23日の「さよなら運転」を最後に引退した。

「のぞみ」による新幹線の高速化や多様化するニーズに応えた「ひかりレールスター」の登場などの影響を受けた形だが、眺望に優れた食堂車が人気だった名列車の退役を惜しむ声は多い。

博多—新大阪間を1往復した「さよなら運転」。ファンら約1200人を乗せて、往路は小倉、広島、岡山のみに停車し2時間49分で走破する全盛期の速達タイプで、復路は長年通い慣れた鉄路にあいさつするかのように、こまめに停車するダイヤで運転された。

各駅や沿線では多くのファンが見送り、あらためて人気の高さを示した。

博多駅で出発を待つ、さよなら運転のグランドひかり

グランドひかりに代表される100系新幹線は、国鉄末期の85年に衝撃のデビューを飾った。初代の0系ばかりだった東海道・山陽新幹線の21年ぶりのフルモデルチェンジ車。2階建て食堂車やグリーン個室などの魅力を備えた「ニュー新幹線」は話題となり、すぐに人気列車となった。

JR発足後も量産が続いた。JR東海は食堂車から「カフェテリア」と呼ばれた供食設備に変え、当時需要の多かったグリーン席を増やした編成を導入した。

一方、JR西日本は東京—博多間の直通運転用として、グランドひかりを送り出した。豪華な食堂車やビデオサービスなど「個性」を打ち出し最高速度を230㌔にアップさせた、100系の真打ちともいえる存在だった。

こうして91年まで量産が続いた100系は、最盛期には東京—博多間の「ひかり」を全て受け持つまでになった。

食堂車など2階建て車両を4両連結した
グランドひかり。圧倒的な存在感だった

しかし「わが世の春」は長くは続かなかった。93年春、東京—博多間で「のぞみ」の毎時運転が開始されると、100系は「脇役」に回った。食堂車付きで存在感を誇示していたものの、乗客は徐々に足が速いのぞみにシフトしていった。

航空機との競争も激化し、97年に最高速度300㌔の500系が登場した。さらに東海道区間ののぞみ増発、山陽区間のひかりレールスターによるパターンダイヤの確立で、足の遅い100系は「こだま」への転用を余儀なくされた。

グランドひかりは存在自体が中途半端なものとなり、2000年3月、ついに最大の魅力だった食堂車が廃止された。その後は16両もの長大編成を持て余すように、繁忙期の臨時列車などで細々と走っていた。

さよなら運転では各駅のホームに
ファンらが押し寄せた=新大阪駅

「さよなら運転」では食堂車もリバイバル営業し、全盛期さながらのにぎわいを見せた。

グランドひかりには現代で失われた「ゆとり」があったとの声は多い。もともとビジネス利用主体の新幹線だが、「旅」としての利用や気分転換といった意味では、食堂車の存在は貴重だった。

一方で登場から10年以上がたち、スピードを優先する時代のニーズに合わなくなってきたとの指摘もある。グランドひかりの「退場」は、新たな時代に対応するためには避けられなかったのかもしれない。

最後のグランドひかりとなった563号の
到着後、博多駅では引退セレモニーが開
かれ、ファンや関係者が別れを惜しんだ

いっぱいの乗客を乗せた「最後のグランドひかり」563号は午後8時25分、定刻どおり博多駅に到着した。ホームで行われた「引退セレモニー」ではくす玉が割られ、関係者がねぎらいの言葉をかけた。

グランドひかりはその後、大勢の関係者やファンらに惜しまれながらゆっくりとホームを離れた。13年間親しまれた花形列車にふさわしい、幸せなラストランだった。

グランドひかりの任を解かれた100系は、一部の車両が4〜6両編成に組み替えられ、こだま用として再出発する。地域間輸送を担う地味な役回りながらも、その活躍はこれからも続く。


※本稿は2002年当時に執筆したものです。100系は2012年に引退しました。

bonuloco
東海道・山陽線の寝台特急に親しんだ元ブルトレ少年です。子どもの頃から手作り新聞を発行するなど「書き鉄」をしてきました。現在はブログ執筆を中心に活動し、ファンの視点から見た小さな鉄道史を発表しています。

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