大都会から山口県に移ってきた103系

1992年6月のJR山陽線防府駅(山口県防府市)。上り列車を待っていると、いつもと同じ瀬戸内色と呼ばれる装いながら、いつもと違う平べったい顔の電車が現れた。

車体の形式名を見ると、なんと東京や大阪を走っていた103系だった。聞き覚えのある独特のドア閉め音とモーター音が鳴り響く。心に衝撃が走った。

田園風景を走る103系=防府—大道、1993年

103系は約3500両が製造された国鉄通勤形電車の代表格だ。車内は大量輸送に適したロングシートで吊り革がずらりと並ぶ。システム的にも山手線のような隣の駅が近く、加速・減速を頻繁に行う路線向けに設計されていた。乗客が少なく駅間距離が長い山口県内の山陽線には最も不向きといえそうな車種だった。

そんな電車がなぜやって来たのか。あとで分かったのだが、山陽線(岩国—下関)の冷房化の促進が投入の主目的で、新型車両が入った関西圏で余剰となった車両を回して、それらよりも古いクーラーのない車両と入れ替える計画だったようだ。

大阪や奈良の電車区から下関に移ってきた16両は4両編成4本となり、1日約17本の列車に充当された。

不慣れなローカル線区で働くことになった103系だったが、私にとっては東京に住んでいたときのおなじみの車両で、それを山口県で日常的に見たり乗ったりできたのである。鉄道ファンとしては楽しみで仕方なかった。大都会で活躍していた電車が田舎で「第二の人生」を歩むというのも新鮮だった。

小郡(現新山口)駅で発車を待つ103系=1993年

しかしロングシートでトイレがない通勤形電車は、一般の乗客には不評だったようだ。同じ路線には現在も活躍を続ける115系3000番台という2人掛けシートが並ぶ快適な車両が走っていたのである。乗り心地を比べてしまうと、その差は歴然としていた。

結局、4編成の103系は翌93年春、新たに広島地区に移ってきた別の10編成と合流する形で下関を離れた。広島では朝夕を中心に乗客も多く、まとまった編成数になった103系は主力形式の一つとして、その後22年という長きにわたって活躍した。

私のお気に入りだった4編成は、再び関西圏に戻って別れ別れになった車両もいたが、最後の1本は2010年まで走った。その中には最初の量産グループとして1964年に山手線に投入されたモハ103・102-29がいたのは感慨深かった。

山口県を走った103系の活躍は岩国周辺の区間を除いてわずか9カ月という短期間だったが、東京や大阪から移ってきて高速運転で奮闘した姿は、私を含めた当時の鉄道ファンに強い印象を残した。

bonuloco
東海道・山陽線の寝台特急に親しんだ元ブルトレ少年です。子どもの頃から手作り新聞を発行するなど「書き鉄」をしてきました。現在はブログ執筆を中心に活動し、ファンの視点から小さな鉄道史を発表しています。

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