東海道・山陽路を1000㌔以上走ってきた寝台特急は、九州に入るとED76形など赤色に塗られた交流電気機関車の出番となる。東京から見ると末端区間で、ヘッドマークも外され地味な印象だったが、1984(昭和59)年2月のダイヤ改正でマークが復活すると一転、注目度が一気に高まった。
61年に交流電化された北部九州地区。電気機関車は最初にED72・ED73形が用意された。前面をくの字に曲げた「鳩胸」と呼ばれたスタイルで格好が良かったが、これら黎明(れいめい)期からの機関車は昭和50年代後半には引退。主力として長く活躍したのは、完成形といえるED76形だった。
九州では外されていたブルトレのヘッドマークだが、本州区間をけん引していたEF65形は取り付けを続けていて高い人気を誇った。
国鉄は78年10月のダイヤ改正で電車特急の愛称表示をイラスト入りにすると好評で、イメージアップと増収のため機関車のヘッドマークを復活させる機運も徐々に高まったようだ。
九州のヘッドマークは「お椀形」と呼ばれる表面がカーブしたタイプ。厚さ2.3㍉の鋼板を直径67㌢の円形に切り抜き、プレスを使って2時間かけて加工していくという。文字や模様の張り付けも含めて根気のいる作業だったようで、出来上がった個体からは工芸品のような優美さが感じられた。
元が電車特急だった「なは」や併結列車の「明星・あかつき」などは新たにデザインする必要があり、ヘッドマークの準備は大忙しだったようだが、復活した九州の赤い電機は話題となり、一般利用者からの注目も集めることとなった。
これは翌年の全国でのヘッドマーク復活に少なからず影響を与えたように思う。
ヘッドマークが復活した九州の赤い電機は、子ども向け鉄道書籍でもカラー写真で巻頭を飾った。私も一目見ようと、3カ月たった84年5月に博多駅を訪れた。大型連休とあってブルトレが発着する8番線は何人もの鉄道少年が熱心にシャッターを切っていた。
本州の青いEF65PF形に見慣れていたせいか、実際に見る赤い電機は青い客車とのコントラストが印象的で新鮮だった。
「さくら」のED76形を前に記念写真を撮ってもらっていると、若い機関助士さんが運転室の窓を開けて、私の頭にそっと帽子をのせてくれた。わずかな停車時間だったが、その優しい気遣いに感激した。
いろいろと言われた国鉄の現場だが、今思うとブルトレを「商品」として捉え、その仕事に携わる誇りを持っていた職員も多かったように思う。
デビューから60年近くたち、後期形でも車齢45年を超えたED76形電気機関車。今も黙々と貨物列車をけん引する姿に接すると、ヘッドマークが復活した84年に見たブルトレを思い出す。新しい電気機関車EF510形300番台との交代が迫る九州。大ベテランの赤い電機はもうすぐ「終着駅」を迎える。