1958(昭和33)年から半世紀以上にわたって親しまれたブルートレイン。各時代・各地域でさまざまな機関車に彩られたが、東京駅を発着する6本の寝台特急のけん引機がEF65 1000番台(PF形)からEF66形に交代した85年3月のダイヤ改正は、ファンに衝撃を与えた。
EF65PF形は、ブルトレ全盛期の顔だったEF65 500番台(P形)を78年夏に引き継いで主役に就いた、当時の直流電機のスタンダードだった。ただ、どの分野でもそうだがスーパースターの後釜は大変で、PF形もP形と比べられ「ヘッドマークが似合わない」などの声が一部から聞かれた。
対するEF66形は68年に登場した高速貨物用で、定格出力3900㌔㍗の強力な電気機関車だった。従来の形式とは一線を画したヨーロピアンスタイルは、多くの鉄道ファンに「貨物列車だけではもったいない。一度ブルトレを引かせてみたい」と思わせた。
EF66形が花形のブルトレ用に転じたのは、寝台特急「はやぶさ」(東京—西鹿児島)にホテルのロビーを思わせるフリースペース「ロビーカー」を連結することがきっかけだった。編成重量が約35㌧増え、EF65PF形ではこれまでの速度が維持できなくなるためだった。
一方でEF66形はこのころ、貨物列車の削減により余剰が見込まれていた。東京—下関間を走る寝台特急「さくら」〜「あさかぜ」の6本全てに同形を回せば、運用の効率化だけでなく、その性能を生かしたブルトレのスピードアップも可能だった。
実際の運用移管は3月14日のダイヤ改正の1週間前から行われた。まず東京から下り「さくら」「はやぶさ」をけん引して下関に到着したEF65PF形が運用離脱。折り返しの上りに下関運転所のEF66形を入れて差し替えていった。
EF65PF形は寝台特急「あかつき4号」の運用で新大阪に向かわせ、さらに京都から「出雲4号」に充当して東京機関区まで戻していった。5区所の機関車に大がかりな変則運用が生じていたから、このとき追いかけていたらきっと面白かったことだろう。今なら交流サイト(SNS)で話題になっていたに違いない。
だが、当時小学生だった私は最新情報に疎く、EF66形への機関車交代を知ったのはもう少し後のことだった。友人から聞いたのか、雑誌で見たのが先だったかは覚えていないのだが、気づけば幼少期から親しんだ東京機関区のEF65PF形は朝の山陽本線からいなくなっていた。
当時の大多数の鉄道ファンは「EF66ブルトレ」を歓迎していて、書籍もこぞって新デザインのヘッドマークを付けたEF66形を特集した。
しかし私は、ヘッドマークを掲げたEF65PF形が載った本や文房具に親しんでいたので、ブルトレ=PF形と刷り込まれていた。そのため鉄道雑誌の「ファンの夢ここに実現!」という見出しは相当なショックで、しばらく山陽本線に足を運ばなかったほどだ。EF66ブルトレを乗ったり撮ったりしてEF65PF形同様に親しむのは、中学生になってからだった。
片田舎の鉄道少年の思いはともかく、EF66形の登板により各ブルトレは東京—下関間の所要時間を最終的に約1時間短縮し、のちにグレードアップして15両の長大編成となったあさかぜ1・4号の重量にも対応することができた。「昭和60年3月改正の衝撃」 はブルトレの競争力を高め、その後の延命につながったように思う。
※元東京機関区のEF65PF形は、60.3ダイヤ改正以降も「彗星」など下関まで入る運用がありました。以下に本稿の続編をまとめました