眺望に優れた2階建て食堂車、鋭く尖ったロングノーズの先頭車…1985(昭和60)年にデビューした東海道・山陽新幹線の100系電車は、フレッシュな存在感から瞬く間に日本を代表する花形列車となった。乗客を第一とした優れた車内設備は、その後の鉄道車両の模範となった。
当時の東海道・山陽新幹線は、開業時以来の0系がマイナーチェンジを繰り返しながら、20年にわたって量産されていた。日本を鉄道の顔として国内外で親しまれていた半面、航空機など他交通機関との競争を考えると陳腐化してきたことは否めなかった。100系は、編成単位で0系車両を置き換えるタイミングに合わせて開発が進められた。
昭和の終わりごろは、今よりもっと新幹線への特別感があった。その新型車両である。世に現れた100系はたちまち話題となり、鉄道ファン以外も多くの人々が注目した。営業運転初日の10月1日、「ひかり3号」が出発する東京駅ホームは大にぎわいだったようだ。
当時小学生だった筆者のまわりも「ニュー新幹線」一色だった。鉄道少年のバイブルだった「大百科シリーズ」(勁文社)などにも早々に取り上げられ、「21世紀に向かって走る」「ブルトレたちに替わり新しい主役」などと紹介されていた。ページをめくるたびに期待が膨らんだ。
初めて100系に乗ったのは、デビューからひと月たった11月3日の「文化の日」だった。最寄りの小郡(現新山口)駅は夕方の東京行き「ひかり28号」しか停車しないため、わざわざ始発の博多駅まで出向いて待ち構えた。
現れた「ニュー新幹線」は真っ白で艶やかだった。これまでの0系のアイボリーとは異なるパールホワイトの車体で、ロングノーズの精悍(せいかん)な顔。そして注目の2階建て車両は、半地下のようになった1階部分からの見上げる車窓が新鮮で、目線の高さにホーム地面が広がる眺めがとても印象的だった。
100系は普通車も大きく変わり、黄色や水色のアクセントカラーに号車番号が大きく書かれた客室のドアが斬新で、3人掛けも回転できる心地の良いリクライニングシートや「次は◯◯、あと◯㌔」などの表示が出る旅客情報案内装置にワクワクした。小郡駅まで約40分間、田舎の鉄道少年はすっかり「ニュー新幹線」に魅了された。
大人気だった100系は翌年すぐに量産され、JR初期のフラッグシップトレインとなった。筆者はその後、受験や帰省、就職活動など人生のあらゆる場面でお世話になった。同じような経験をした人は多かったのではないかと思う。
ただ100系は、車両性能よりも旅客サービスの向上を主目的とした車両だった。92年の「のぞみ」登場により新幹線が高速化時代を迎えると主役を追われ、充実した客室設備を持て余すようになったのは残念だった。
それでも「お客さま第一」の設計思想は一つの基準となり、その後JR各社で咲き誇る多くの新型車両に受け継がれていった。その意味では100系はエポックメーキング的であり、国鉄が最後に送り出した名車だった。
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