JR山陽本線防府駅(山口県防府市)のすぐ西側に、かつて地域住民に親しまれた小さな踏切があった。1994年の鉄道高架化とともに姿を消したが、周辺は同市と徳地町(現山口市)を結んだ防石鉄道(64年廃止)の記念広場として整備されている。
踏切の名前は「東赤間踏切」といい、山陽本線の442.3㌔地点にあった。朝は通学の高校生、日中は駅南にあるショッピングセンターへの買い物客らが行き来した。警報機と遮断機はあるものの歩行者と自転車だけが通るのんびりとした雰囲気で、鉄道少年にとっては気軽に写真が撮れる場所だった。
国鉄時代には貨物駅もすぐ近くにあり、東赤間踏切にも引き込み線が通っていた。貨物列車の入換作業では、幾十にも重なった2軸貨車が「タン・タン・タン」とリズミカルな音を奏でていて楽しかった。
だが防府駅周辺の踏切は、貨物列車の入換作業中「開かずの踏切」になっていた。自動車が通る道路を何分間も塞ぎ、まちは南北で分断される形になっていた。
そうした状況を解消すべく、地元では70年代から山陽本線の高架化を求める動きが始まり、国鉄の承認や国による事業認可などを経て、86年にはまず貨物ヤードが郊外に移設された。
防府駅周辺5.3㌔の連続立体交差事業は87年9月に着工。90年代に入ると巨大な高架の建造物が壁のように広がっていき、景色は見る見るうちに変わっていった。93年10月の下り線に続き、翌年5月には上り線も高架の新線に移り、東赤間踏切も役目を終えた。
次々とやって来るブルートレインを熱心に見た筆者にとって、東赤間踏切は「鉄道趣味の原点」のような場所だった。いずれなくなるのは分かっていたとはいえ、実際に線路がはがされていくのを見た時の喪失感は想像以上だった。
ところが踏切の構造物が次々と撤去される中、山陽本線上りの線路だけがわずかに残されていた。不思議に思ったが意図的に残されたのは明らかだった。その後は訪れるたびに整備が進み、96年2月に連続立体交差事業の完成に合わせて現在ある「防石鉄道記念広場」がお目見えした。
防石鉄道は1919(大正9)年に開業した私鉄で、元々は島根県まで延ばし陰陽連絡の役割を担う計画だった。戦後の自動車輸送の発達の影響もあり生き残ることはできなかったが、地元では長年親しまれていた。
防石鉄道記念広場には、かつて活躍した蒸気機関車「クラウス2号」と客車2両がJR西日本下関車両センター(現下関総合車両所)で整備の上、残されていた線路上に展示された。国鉄・JRの旧本線を活用して私鉄の機関車を展示するコラボレーションは、全国的にも珍しいのではないだろうか。
山陽本線の高架化から30年。再開発できれいになった防府駅周辺にかつての面影は見出せなくなったが、今もこのまちを訪れたときは鉄道広場になった思い出の東赤間踏切の跡地に立ち寄っている。
かろうじて残る当時の線路沿いの道路をたどり、少年時代に何度もシャッターを切った位置に立つと、EF65やEF66形のブルトレが朝日を浴びてさっそうと走っていたあの頃の記憶が鮮明によみがえってくる。
※1枚目写真(キャッチ画像):早朝の東赤間踏切を行く寝台特急「富士」=1986年
※姉妹ブログ「れきてつ」では、高架化以前の防府駅を紹介しています。併せてご覧ください