夕方から夜にかけて東京駅を次々と出発した九州方面行きの寝台特急。一夜明けると恒例の「儀式」があった。本州西端・下関駅での機関車交換。多くの鉄道ファンが注目するブルートレインの旅のハイライトだった。
東海道・山陽本線を約1100㌔走ってきた直流電気機関車EF65、EF66形は下関駅でその任を解かれた。関門トンネルを抜けた次の門司駅から交流電化に切り替わるためで、ブルトレけん引のバトンは、交直両用のEF30、EF81形が引き継いだ。
下関駅では約5分間停車し、その間に機関車を付け替える。車内放送でも伝えられるため、一般の乗客でも「いよいよ九州に近づいた」と感じたことだろう。インターネットが普及した現代よりも言葉や文化などに地域差があった時代だ。関門海峡越えは特に意識したことだろう。列車から降りて交換シーンを見守る人も見られた。
また、ホームには駅うどんの売店があり、停車時間を利用して下関名物のフグが入った「ふく天うどん」などを買い求める人も多かった。うどんは容器ごと車内に持ち込めるので人気があった。
鉄道ファンにとっては、下関駅での5分間はブルトレ乗車時の最大の楽しみだった。機関車交換をカメラに収めるのは最も重要なミッションで、到着が近づくと一番前寄りの1号車に移動して待機した。
80〜90年代の東京発着ブルトレには主に2種類の編成があったが、私がよく乗った博多行き「あさかぜ1号」はちょっと厄介だった。機関車の後ろが電源・荷物車(カニ24形100番台)になっていて、その後ろの個室A寝台車(オロネ25形)も、出入り口が後ろ寄りの1カ所しかなかった。
そのため機関車を撮るにはホームを3両分、距離にして約60㍍前方に進む必要があった。ドア付近に降りる人の列ができているとピンチで、後ろの方でのんびり構えていると、ヘッドマークを掲げた「スター機関車」の切り離しに間に合わなかった。
機関車の交換が終わると、今度は急いで戻らなければならなかった。個室A寝台車のドアまでの最後の20㍍がずいぶん長く感じられ、子どもだったせいか「乗り遅れたらどうしよう」と本当に不安だった。撮り終えた満足感と発車時刻が迫る緊張感が交錯した。
昭和50年代のブルトレブームから40年以上。最後まで残っていた「富士・はやぶさ」の廃止からも15年近くが過ぎた。多くの鉄道ファンが駆けた下関駅の長いホームは短いローカル列車の降車専用となり、機関車交換が行われた九州寄りを訪れる人はほとんどいない。
それでも、当時の雰囲気が残っているのは貴重で、同じ場所ぬにたたずんでみるとあの頃の記憶がよみがえってくる。ブルトレ少年には忘れ難い「聖地」の一つである。
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