国鉄の気動車王国だった四国に電車が走り始めたのは、JRへの移行を1週間後に控えた1987(昭和62)年3月23日だった。翌88年4月10日に瀬戸大橋が開通すると、眺望に優れたグリーン車を連結した快速「マリンライナー」なども登場。電化区間は華やかな雰囲気に包まれた。その中で黙々と働くベテランもいた。新性能直流近郊形の元祖、111系電車だった。
111系は62年にデビュー。出力増強タイプの113系は大量に増備され、東海道線や横須賀線の主力形式となった。だが「111系」を名乗る初期型は小世帯だったこともあり、国鉄末期に車両整理が行われると、真っ先に廃車に追い込まれた。
その際にはほとんどが運用を離れたが、静岡地区で活躍していた中から12両が集められ、新たに電化開業する四国に渡って「再就職」を果たした。翌年には既に廃車になっていた8両が車藉復活の上で加わり、最終的には4両編成5本がクリーム地に水色の帯を巻いたさわやかな装いで讃岐路を走った。
瀬戸大橋開業時には、駅や沿線のにぎわう様子が多くの鉄道雑誌で報道された。主役は「マリンライナー」や松山、高知などに直通する特急、初めて四国に顔を出したブルートレイン「瀬戸」だったが、その中にベテランの111系の姿もあった。ただ、誰の目から見ても年季の入った車両で、さわやかな明るい塗色は、筆者も「なんか無理してるな」などと思った。
四国の電化開業時に用意されたのは121系だった。当時のトレンドだった軽量ステンレス車体の電車で、この新車に比べると111系は明らかに見劣りした。そのため古い車体を延命させ客室水準を121系に近づける大幅な改造が行われた。
冷房装置の取り付けや暖房強化、内装の変更、床の取り替え…87年から翌年にかけての鉄道雑誌を見ると、毎月のように四国の111系の話題があった。それはいま振り返ると、中古住宅のリノベーションのようにも思えた。
さらには111系では、JR四国が鉄道関連事業の収入拡大をめざす「広告電車」の取り組みも行われた。2編成が「コカ・コーラ」「UCC」の走る広告塔となった。
「古い」「老朽化が進んでいる」など書かれていた111系だったが、そのように経営努力もあって、結果的には2001年まで活躍を続けた。
経営基盤が弱く投資が限られるJR四国の事情も大きかったが、本来は国鉄の終焉(しゅうえん)とともに姿を消すはずだった111系が、さまざまな改造を受けながら長く走り続けたことは、特筆に値すると思う。
最後2001年の引退時には、往年の湘南色に戻されて花道を飾った大ベテラン。JR四国の車両群の中では地味な存在だったが、草創期を支えた功績は大きかった。
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