1980(昭和55)年に発行された「レイル・カレンダー1981」(山と渓谷社)。その年にデビューした京阪神地区の117系近郊形電車が、新幹線や特急、ブルートレインなど当時の看板列車を押しのけて表紙を飾った。さっそうと走る姿を流し撮りでとらえた写真は、期待の新星への注目の高さがうかがえる。
117系は京都〜大阪〜神戸の三つの都市をノンストップで結ぶ「新快速」向けに用意された電車だった。そのルーツである「関西急電」と同じクリーム1号・ぶどう色2号の外観に、2人掛け転換クロスシートが並ぶ車内は、画一化が進んだ国鉄一般型車両では異色だった。
京阪神地区は私鉄との競争が激しかった。スピードには勝るものの運賃が高かった国鉄は、「限りなく特急に近い」ハイグレードな新車投入で巻き返しを図った格好だった。
「常識破りの主たるものだ」「ひときわ群を抜いた輝かしい存在」「近年稀に見る豪華車両」「日光形157系の再来」。当時の鉄道関係の刊行物を見直すと、そんな言葉が並んでいる。117系は80年代の国鉄電車の「顔」だった。
筆者が117系を初めて見たのはいつだったか記憶していないが、はっきり覚えているのは88年夏の高松行きの快速「マリンライナー」の車窓だった。鉄道書籍でおなじみの京阪神のスターを見つけたときは、当時最新型だったステンレス車体の電車よりも心が躍った。
京阪神のスターだった117系も、JR発足後に後継形式の221系などが登場すると花形の新快速から撤退し、徐々に周辺線区へと活躍の場を広げた。中国地方でも短い4両編成に改めて走り始め、2005年からは5本が下関に移ってきて岡山に転出するまで10年間、山陽本線新山口—下関の普通列車として運行された。
その中には、筆者がマリンライナー車内から見た編成もいた。「常識破り」などと言われた117系はそのころには見慣れたものになっていたが、昔から気になる存在だけに、地元を走るご縁はうれしかった。
117系がいる日常は、見ても・乗っても喜びを感じた。短い編成となってローカル輸送を黙々とこなした下関時代。「新快速」のヘッドマークこそ空欄になっていたが、伝統色をまとったスターのオーラは地方でも変わらず輝いていた。
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