まぶしい存在だった昭和末期の205系

今ではスタンダードとなった軽量ステンレス製の鉄道車両。開発当初は東急電鉄などで見られるだけだったが、国鉄が1985(昭和60)年、205系電車で採用したのを契機に急速に普及した。山手線に投入された銀色の電車は、人々の国電のイメージを一変させた。

昭和50年代後半、財政難にあえいでいた国鉄は、コストを抑えつつ新機軸を導入した新しい通勤形電車を探っていた。その答えが205系で、わずか7カ月間で開発されたという。

通勤形電車の顔だった山手線、京浜東北線の
103系と西日暮里駅で並ぶ205系(中央)。
銀色の車体は新時代を感じさせた=1987年

外観の大きな特徴は軽量ステンレス製の車体だ。東急車輛(現・総合車両製作所)が開発したもので、アルミ製に迫る軽量化を実現したことで徐々に広がりを見せていた。

国鉄が205系で採用するに当たって、設計・製造ノウハウが他の鉄道車両メーカーに無償供与された。

当時の東急車輛で開発に携わった方の回顧録を読むと、独自技術の公開には相当の葛藤があったようだが、結果的にはその英断が今日の軽量ステンレスカー隆盛の流れをつくった。

205系でもう一つ注目されたのは、開放的な1段下降式の側窓だ。従来タイプの窓だった第1陣の完成時、視察した国鉄関係者がすっきりした1段下降窓の横浜市営地下鉄の車両と見比べ、その場で採用を決断したというのは、よく知られたエピソードだ。

1段下降式の窓は軽快な印象
を与えた=上野駅、1987年

地方の鉄道少年にとっては、205系誕生までのそうした経緯は知る由もなく、ただただ真新しい大都会の電車という認識だった。

まぶしい存在だった205系にようやく乗車できたのはデビューから2年が過ぎた87年の夏休みだった。その頃にはもう山手線車両の6割くらいがウグイス色の103系から切り替わっていた。

下町に住む叔父が東京観光に連れ出してくれた帰りに、当時まだ新しかった地下鉄銀座線の01系と205系の乗車を組み込んでくれた。

もっとも、その頃はもう一人であちこち出かけていて、205系にも既に何度か乗っていた。それでも叔父は田舎から出てきた鉄道好きのおいに、東京自慢の新型車両を見せたかったのかもしれない。

201系から続く正面のブラックマスクは、205系の
登場により完全に定着した=西日暮里駅、1989年

従来の国鉄通勤形電車から大きく飛躍しエポックメーキング的な存在だった昭和末期の205系は、鉄道に全く興味のない人々をも振り向かせるキラリと光る存在感だった。

bonuloco
東海道・山陽線の寝台特急に親しんだ元ブルトレ少年です。子どもの頃から手作り新聞を発行するなど「書き鉄」をしてきました。現在はブログ執筆を中心に活動し、ファンの視点から小さな鉄道史を発表しています。

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