鉄道少年が見た情景– category –
-
流れ星マークを付けたEF66形~ブルトレ専用機の証し
国鉄末期の1985(昭和60)年3月からブルートレインで活躍したEF66形電気機関車。「あさかぜ」「はやぶさ」など伝統列車のヘッドマークを掲げた姿は多くのファンを魅了したが、JR移行後にもう一つ、ブルトレ専用機としての象徴的なアイテムが添えられた。運転席窓下、車体側面にあった「流れ星マーク」だ。 -
四国に渡った111系〜JR草創期を支えたベテラン
国鉄の気動車王国だった四国に電車が走り始めたのは、JRへの移行を1週間後に控えた1987(昭和62)年3月23日だった。翌88年4月10日に瀬戸大橋が開通すると、眺望に優れたグリーン車を連結した快速「マリンライナー」なども登場。電化区間は華やかな雰囲気に包まれた。その中で黙々と働くベテランもいた。新性能直流近郊形の元祖、111系電車だった。 -
ブルトレけん引機 EF66形に交代~60.3改正の衝撃
1958(昭和33)年から半世紀以上にわたって親しまれたブルートレイン。各時代・各地域でさまざまな機関車に彩られたが、東京駅を発着する6本の寝台特急のけん引機がEF65 1000番台(PF形)からEF66形に交代した85年3月のダイヤ改正は、ファンに衝撃を与えた。 -
鉄道新時代の扉を開いた100系「ニュー新幹線」
眺望に優れた2階建て食堂車、鋭く尖ったロングノーズの先頭車…1985(昭和60)年にデビューした東海道・山陽新幹線の100系電車は、フレッシュな存在感から瞬く間に日本を代表する花形列車となった。乗客を第一とした優れた車内設備は、その後の鉄道車両の模範となった。 -
0系新幹線の窓 大きさ比べ〜鉄道趣味探求の入り口
「夢の超特急」として1964(昭和39)年にデビューした0系新幹線。その親しみやすい団子鼻は日本の鉄道のみならず、高度経済成長期の象徴的なアイコンとなった。20年以上にわたり3216両が製造された0系は、趣味対象としてはマイナーな分野だったが、側窓の大きさの違いなど楽しめる要素も多かった。 -
京阪神のスター117系〜地方に回った後半生
1980(昭和55)年に発行された「レイル・カレンダー1981」(山と渓谷社)。その年にデビューした京阪神地区の117系近郊形電車が、新幹線や特急、ブルートレインなど当時の看板列車を押しのけて表紙を飾った。さっそうと走る姿を流し撮りでとらえた写真は、期待の新星への注目の高さがうかがえる。 -
急行「火の山」と阿蘇観光
1984(昭和59)年の夏、熊本駅から豊肥本線の急行「火の山」で阿蘇に向かった。当時は3往復運転されていたが、朝9時半ごろ出発する1号は観光客らで混雑していた。立野駅のスイッチバックを越えて阿蘇のカルデラに入ると、「火の山」の車窓には雄大な景色が広がる。知らない土地を進むローカル線の旅は新鮮だった。 -
昭和50年代 特急有明に連結された「ビデオカー」
昭和50年代後半、九州を代表する特急「有明」の一部列車に「ビデオカー」という車両が連結されていた。編成端に組み込まれた自由席車両で、大型スクリーンで郷土芸能や観光案内などのビデオをエンドレスで放映していた。 -
JR貨物の試験塗装機〜新生会社のイメージアップ作戦
国鉄からJRへー。1987(昭和62)年4月、新たに発足した各社では、イメージアップや地域密着アピールなどのため列車の塗装変更が多く行われた。JR貨物でも、貨物列車をけん引する電気機関車に試験的に行われた。 -
115系3000番台〜都市圏輸送を変えた「シティ電車」
国鉄末期の1982(昭和57)年、広島地区に登場した「ひろしまシティ電車」。地方都市で首都圏の国電並みの等間隔・高頻度運転を実現させたもので、「待たずに時刻表なしでも乗れる」便利なダイヤは、各地の都市圏輸送の手本になった。「シティ電車」の運転形態に合わせてデビューしたのが115系3000番台だった。 -
宇部線のクモハ105形500番台〜地下鉄千代田線直通車の転身
地方の電化路線に残っていた茶色の旧形国電の置き換え用として1981(昭和56)年に登場した105系通勤形電車。旅客量に応じて短編成で走れる設計で、主に西日本のローカル線に投入された。同系には常磐緩行線〜地下鉄千代田線を走っていた103系1000番台の改造車500番台のグループもあった。 -
山陽本線の名所・四郎谷の入り江
山陽本線に乗ったときの楽しみは車窓に広がる瀬戸内海。東京駅からの寝台特急で朝を迎えたときの、陽光を受けてキラキラと輝く景色は印象的だ。山口県周南市から防府市にかけての戸田—富海間はさまざまな表情の海が広がる。その中ほどにある四郎谷地区の穏やかな入り江は、風光明媚な名所として親しまれている。